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田中博氏の回復を願って 

~チャリティコンサートに寄せられたメッセージ集~

 

恩地 勝(京都大学理学部教授)

「・・30年あまりの付き合いとはいえ、年に2,3回しか顔を合わす機会が

なかったので、彼が判断してくれるかどうかいささか気がかりであったが、

私を見るなり、『ア、わるいのが来たな』といってくれたのでほっと安心した。

彼は、丹後の峯沢に手ほどきを受けた後、京都でも暗中模索時代を経て

日本画家の菊池隆志さん、音楽家の近衛さんの援助を得て上京し多くの

優れた内外の演奏家とその楽器や弓に接して急速に成長していった。

田中さんは口の悪さに反比例して温かい心の持ち主である。そして何よ

りも誠実である、虚偽と不正を限りなく憎む誇り高き技術者である。いか

がわしい楽器や弓が横行し、法外な値段で売買されている今日、彼の腕

と鑑識眼の高さは多くの弦楽器奏者や愛好家たちの拠り所になっている

といっても良い。彼の嗜好はヴァイオリンの華やかな音づくりよりもむしろ、

地味に溢れ人生の優秀を歌う中低音の楽器づくりにあると思われる。従っ

てヴィオラやチェロの製作が彼の本領ではあるまいか。・・・」

 

小林武史(ヴァイオリニスト)

「・・兎に角怖い人で機嫌が悪いときに行くとよく説教されたものだが、おか

げでいろいろ楽器について勉強させられ感謝している。日本に正しい歴史

を残すとすれば彼は我々楽団にとってなくてはならない人である。音につ

いてはうるさく、奏法についても我々以上に客観的にものが言えたし、弦

楽器の調整について確固たる信念を持っていたようである。・・」

【取材帳から】 『病床で嘆く楽器職人』昭和53年12月 毎日新聞から

「何も知らずに楽器を購入した学生がかわいそうだ」-東京港区のビルの一室で、病床に伏す初老の弦楽器製作者、販売業者がつぶやいた。東京芸大の楽器購入をめぐる汚職事件で明るみに出た、大学教官と楽器商とのリべートで結ばれた黒い癒着を憂えてのことだった。港区南青山に住む田中博さん(58)。戦後、都内の楽器輸入販売会社と提携してイタリア系アメリカ人、ぺルソン作の弦楽器を日本に初めて持ち込んだことでも知られるヴァイオリン製作者。京都で生まれ、地元の高専で化学を専攻、商社マンに。敗戦後、一転して楽器製作を志し、京都のヴァイオリン製作者に師事、都内で独立した。ヴァイオリン作りの腕前は確かなうえ、採算を度外視、気に入った人に気に入った楽器だけを売っていたことから、N響、日フィル関係者のほか、海外の演奏家からも注文が絶えなかった。それが53年春、千葉県銚子市で釣りをしている最中、くも膜下出血で倒れ、以来寝たり起きたりの生活に。現在は弟子が細々と後を継いでいる。『お金に困っている人には、赤字覚悟で楽器を売ってしまう。その代わり気に入らないと札束を積まれても絶対に売らない人です』と奥さんはいう。この言葉を裏付けるように芸大のヴァイオリン担当の田中千香士助教授も『田中さんのような人ばかりだったら、今回のような事件は起きなかったはず。楽器業界がリベート商法に流れないように抑えてきた田中さんが病気になったため、業界も演奏家も乱れてしまった』と。だから生活に余裕はなく、青山道りの古びたビルの一階にある自宅と仕事場兼店舗は借り物。他業者の店がじゅうたんを敷いた豪華なのに比べ、田中さんの仕事場兼店舗は板張り。壁に掛けてあるヴァイオリンとノミ、カンナなどの工具でようやく楽器製作、販売業者とわかるほど。病の床で知ったヴァイオリン売買をめぐる事件。芸大教授。海野義雄(45)の汚職だけでなく、大学教官が学生の楽器を斡旋する際に多額のリベートが楽器商から支払われていることが明るみに出た。リベートは芸大教官に限らず、国公私立の多くの音楽担当教官にも慣習的に支払われていた。その額は、価格の10%前後から30%に上り、海野の場合は、54年前後の数年間で千数百万円もの“口きき料”を受け取り自宅のローン返済などに充てていた。利益優先主義の楽器商と金銭感覚に麻痺しがちな芸術家が結びついてうまれたリベート商法。田中さんは『仲間うちのことだから』と多くを語りたがらないが、『先生は、本来ならリベートを受け取るかわりに、学生がその分を安く買えるようにすべき』と主張、楽器商に対しても“音楽という芸術を商売の垢にまみれさせた”と示唆、リベート商法という悪しき習慣を厳しく非難する。病床でヴァイオリンを抱き続ける気骨のバイオリン業者。その身に年の瀬が残したのはヴィオロンのため息にも似た深い嘆きだった。

前橋汀子(ヴァイオリニスト)

「・・やがて15年になります。田中さんがいてくださることで安心して毎年帰

ってくる日本でした。ためになる毒舌に私は一生懸命耳を傾け、おかげで

いろいろ楽器の勉強をさせて頂き感謝しております。私の主治医はいつ

までも元気でいて下さらないと困るのです。・・」

 

黒沼俊夫(京都芸術大学音楽学部教授)

「・・僕とは古い付き合いで戦後復員してから恐らく彼のところにしか行った

ことがないので楽器にしても弓の張替えにしても僕の持っているものはよく

知っていてくれて、ただ黙って置いて来るだけで用は済んでしまうほどでし

た。今はその弓の毛替えひとつにも事欠く有様で早く回復してくれないと困

るのです。大分一徹なところがあって他のお客のいる前で良く口喧嘩をし

たりしたものですがそういうところが好まれたり、又嫌われたりして大分逃

げ出した人もいたようでした。ただお金のことには全く恬淡としていたので

家族の方も大変だろうと思います。兎に角早く口げんかの一つも出来るよ

うになって欲しいと願っております。・・」

 

*他に岩渕龍太郎(京都市立芸術大学音楽学部教授)、

江藤俊哉(ヴァイオリニスト)、久保田良作(ヴァイオリニスト)、

長谷恭男(N響事務長)、ルイ・グレーラー(ヴァイオリニスト)の

諸氏からメッセージが寄せられました。

闘病見舞いの演奏会  外人バイオリニストの提唱で

昭和54年1月18日 読売新聞から

“旋律ドクター”田中さんにN響団員ら13人  今月30日“孤高のバイオリン制作者”田中博さん(59)(東京都港区南青山2の27の7)が、クモ膜下出血で倒れてから10ヶ月になる。病状は、日々快方に向かっているが、弦楽器の修理や調整で、“旋律のドクター”田中さんの世話になっている音楽家たちが、「1日も早く元気になって欲しい」という願いをこめて、今月30日、東京・新宿の厚生年金会館でチャリティー・コンサートを開く。曲目の一つはドボルザークの「弦楽セレナーデ ホ長調」。演奏家たちが送る小夜曲はきっと田中さんを元気づけるに違いない―。

田中博さんは、終戦直後から30年以上にわたってヴァイオリンなどの弦楽器製作一筋に生きてきた。酒が好きで、近くの酒屋からもらった前かけ姿でヴァイオリンを作り続けてきた。また、音楽批評は歯に衣着せず、音楽家にとっては耳が痛いこともあるが、的を射た、率直な意見に音楽家たちは魅せられもしている。今回のコンサートに参加するヴァイオリニスト植木三郎さん(45)(読売日本交響楽団)は「田中さんは音の出し方についてアドバイスをしてくれる。本当の音を知っている人だ。私は20年以上、お世話になっているが、今だにしかられている。何時会っても怖い人だ。酒は一晩でウイスキー2本、それでいて翌朝はケロリとして仕事をしている。むしろ外国での方が有名で楽器製作者の国際会議に呼ばれる日本人は田中さんだけだろう。国際的視野も広く、教えられることが多い」とその温かい人柄を慕っている。

その田中さんが昨年千葉県銚子市の海岸で倒れた。クモ膜下出血。千葉市の病院に入院して手術、以来闘病生活が始まったが、病状は次第に回復、昨年11月には退院の運びとなり現在は自宅で療養を続けている。今回のチャリティー・コンサートの話が持ち上がったのは昨年夏。有名な指揮者チェリビダッケ氏の秘蔵っ子ヴァイオリニストといわれ、田中さんと10数年来の付き合いだというロニー・ロゴフ氏が来日した際、「個人で何かやるよりコンサートを開こう」と提案、N響のコンサートマスター田中千香士さん(39)が賛同、N響のメンバーを中心に企画が進められ、話はトントン拍子でまとまった。出演するのは、ヴァイオリニスト、ヴィオラ、チェロ、コントラバス奏者の音楽家13人でロゴフ氏も特別参加する。曲目はバッハの「ヴァイオリン協奏曲第2番ホ長調」など3曲。このコンサートの幹事役の一人、田中千香士さんは

「私たちのヴァイオリンのドクターである田中さんに一日も早く元気になってもらいたい気持ちで一杯です。」と話していた。

朝日新聞〈人〉の欄から 田中千香士氏(ガミガミ親父ことヴァイオリン製作者田中博氏の病気回復を願いコンサートを開くN響コンサートマスター

「・・僕たち困り果てたんです。ヴァイオリンの調整の名医にもしものことがあったら・・この際みんなでガミガミ親父を慰めてコンサートをってことになったんです。」

―親父なんっていうと性は同じであなたのお父さんみたいで。

「ヴァイオリンの音ってことでは、僕らにとっては親父以上の存在です。職人気質・・音のセンスは抜群でクレモナの名器の原点の音を知っているんですね。調整してもらいにいってその楽器の取り扱いが悪いと怒鳴られる。気の弱い人はもうそれだけで行かなくなる・・調整の腕は勿論ですが、その飾らない人柄に惚れ込むんですね。外人プレーヤーにも親父のファンが多い。今度のコンサートもチェリビダッケの秘蔵っ子といわれるロニー・ロゴフがアメリカから駆けつけてコンチェルトのソロパートを受け持ってくれる。彼も親父ファンなんです。・・

チャリティコンサートに関する新聞記事

・朝日新聞から 

【供養の演奏 恩人に届け

 峰山町出身バイオリン制作者田中さん7回忌】

「峰山町出身のヴァイオリン製作者で69歳で亡くなった田中博さんの

7回忌の供養にと1日夜、NHK交響楽団の4人が同町役場のリビングホールで弦楽四重奏のコンサートを開いた。

田中さんは東京・青山に工房を持っていた。演奏への批評は厳しかったが、気に入った演奏家には一番の出来栄えとなった作品を売るなど、若い演奏家の相談相手となって日本の音楽水準を陰で支えた人という。死後もその人柄を慕って峰山町の墓所を訪れる音楽家が多い。

この日の演奏会は田中さんの長女で町内に住む千穂さんが墓参する4人に頼んで実現した。N響団員のコンサートは同町で初めて。

満員の約300人がドボルザークの「アメリカ」など3曲に聴き入った。

2回のアンコールも含め2時間のコンサートに千穂さんは「心の琴線に触れる素晴らしい音色でした。この上ない父の供養になりました」と感激していた。

田中さんは1920年に同町で生まれた。第2次世界大戦に従軍して負傷、帰郷して療養中に疎開してきた人から弦楽器の製作を教わったそうだ。56年から東京で制作を始め、内外の多くの演奏家が田中さんの弦楽器を求めた。・・・」

 

・京都新聞から

【峰山 N響団員が友情の四重奏 故田中さんを偲び町役場で】

「・・・コンサートは午後7時の開演と共に約300人の聴衆が集まり、

メンバーらが奏でるモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ハイドンの「ひばり」などの調べに聴き入っていた。最後はアンコールを求める拍手が会場に鳴り響いた。

田中さんはN響や海外の演奏家の弦楽器の製作や修理を手がけ、

信用度は群を抜いていたという。1974年からN響顧問を務めていたが

6年前69歳で亡くなった。4月7日には「7回忌の集い」が東京で開かれたこともあり田中さんの長女の千穂さんがN響メンバーに呼びかけてコンサートが実現した。」

『・・もう20年もたったのですね。田中さんとの思い出は数限りなくありますが、なんと言ってもオケの弦楽器のレヴェルを上げて下さったことですね。私も、CraskeからPeressonへと(買い換えるとき)経済的な面からご心配くださったこと有り難く思っています。千穂さんの活動もすばらしいです。何かお役にたてることが有りましたらお手伝いしたいです。』                              

                            三宅 達也 ヴィオリスト

 

『・・私はN響を退職してもうすぐ2年過ぎようとしています。洗足学園音大でオーケストラの指導をしています。田中さんには大変感謝しております。その影響で、本当に今日があるのだと思います。』

                             茂木 新緑 チェリスト

 

『・・田中博さんとは、私が17歳でコントラバスをはじめたころよりお世話になり、いろいろな面でご指導を頂きました。弓の購入、楽器の購入の際にとどまらず、フィラデルフィアオーケストラのトラバス修理が出来て引き渡される間に電話を頂き、即座に伺って名器を弾かせて頂くチャンスを得ました。ひいてはそのことがいま使用している楽器を選択する際に判断基準になり得たことを考えると大変貴重な経験をさせて頂いたと考えております。又、高校生の右も左も分からない時期に一度だけソリストに張り替える弓の毛を張って頂いた経験があります。いつもとは違う作業工程を見ながら判らなくとも何か違うということを教えていただいた経験がその後卒業してN響入団してからも忘れられぬ記憶として今も目に焼きついております。渋谷の桜肉を食べさせるお店に連れて行かれた思い出も初めて食した馬肉に感激した記憶にあります。田中博さんの毒舌に圧倒されるばかりでしたが、N響でコントラバスの修理代金にもめた際の親方の「そんなこと言うならいらねー」とばかりに目の前で破り捨てられた迫力ある啖呵に感激したこと未だに忘れられません!今考えると30年近くお世話になりましたが何も恩返しが出来ませんでしたので「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を弾かせていただけるならば望外の喜びです!また握力の強さには驚嘆したこと。軍人として馬に乗られたことも伺い、納得したことも良き思い出の一つです。』

                          建部欣司 コントラバス奏者

 

『・・先年7回忌の集いでしたのにもう没後20年なのですね。年月の立つのはなんて早いのでしょう。 私が大学に合格しました時、河野俊達先生が、田中さんをご紹介下さって田中さん製作のヴィオラに出会いました。もう50年も前のことです。その後、ヴァイオリン、弓等いろいろお世話になりました。楽器をみていますと田中さんが弓の張替え、楽器の調整をしてくださっているお姿が目に浮かんで参ります。このたびの集いに奥様の元枝様が居られないのは大変残念に存じます。

お二人のご冥福をお祈り申し上げます。

                         福岡由紀子 ヴァイオリニスト

 

『・・田中さんの生前には、娘2人が大変お世話になりました。田中さんと言えば青山、奥様との思い出も尽きません。(当時、芸大生だった)祥子は、田中さんから贈られたヴィオラともどもベルリンです。美佐子は、演奏のお手伝いをさせて頂きます。』

                                     石井澄子

 

『・・ご活躍のこととひたすら感心しております。これまでの千穂さんの努力されたことが実を結んでいかれているのですね。それと天国のご両親がいつも見守って下っているのですね。・・・』                       

                          中村佳子 ヴァイオリニスト

                                               

『近衛先生の赤坂の練習所で仕事していた田中さん思い出します。・・そして、田中さんの造ったヴァイオリン、ヴィオラ、チェロの音を聴かせて下さい。当日、楽しみにしていますよ。』                                                     

                                    宮崎 隆男

 

『 <田中博先生への想い>

1.学生のとき、チェロを譲って頂いた事。

2.後輩のヴァイオリンを選ぶ時、通路に出て楽器の音色選定をした事。

3.青山、赤坂界隈によく飲みに連れて行かれ迷惑を掛けたにもかかわらず、お返しする機会がなかった事。

4.話は辛辣だが、愛情豊かだった事。

5.真贋に対し妥協を排したこと。

いずれも詳細を語れば、紙が足りません。成功を祈ります。

                                    山内洋正

 

 

・毎日新聞から

【峰山町出身、バイオリン制作者

  田中博さん追悼の調べ N響の4人が演奏】

「・・・今回の演奏会は長女の千穂さんがたびたび墓参りに訪れるN響のメンバーに『父の供養を兼ねて地元でコンサートが開けないか』と相談したのがきっかけ。申し出を快諾したN響団員がコンサートツアーの途中に同町に立ち寄ることになった。午後7時に開演。金田幸男さんと板橋健さん(ヴァイオリン)、永野雄三さん(ヴィオラ)、田沢俊一さん(チェロ)、がモーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、ハイドン「ひばり」、ドボルザーク「アメリカ」などを演奏する。入場は無料。・・・

『・・1959~60年頃、田中さんの新作の、当時真っ赤で長い(42㎝位?)ヴィオラを使用させて頂きました。強い豪快な音で、若干じゃじゃ馬なので私には弾き切れないほどの素晴らしいヴィオラでした。しかし間もなく、BSA(ボストンシンフォニーのキャロルさんが昔使ったポラストリを買う人がいないかといことで田中さんに相談したところ、田中さんのヴィオラは他に回すから「お前はこれを買え」といって頂き、ポラストラを入手しました。その後、田中さんのお世話で白川総業がフィラデルフィアのメーニックから購入したシュタイナースクール(1700年製)を買わせて頂き、今も所有しております。張りが有って素晴らしく美しい音で遠くまで音が飛んでいく素晴らしい楽器です。当時のオケで大変評判になりました。1943年楽員交換でボストンに行った時、キャロルさん、他の方のお世話で当時メーニックに居たセルジュ・ペレソンが私のために製作してくれたクライスラー・ガルネリ・デルジェスの拡大コピーのヴィオラを持って帰り、田中さんに大層ほめて頂きました。これも大変評判になり、オケマンが新作を持つきっかけになったと思っています。この楽器は、シュットットガルトフィルのトップを弾いている甥に譲りました。田中さんにはこれらの楽器の調整をいつも最高のものにして頂きました。・・』       

                             赤星昭生 ヴィオリスト

 

『・・あれからもう20年が経ちましたか。つい最近のように残っている記憶もあり、また遠い昔の出来事も甦ってきます。ヴァイオリン資料館の文献に役立つよう、私の持っている一部を寄贈しようと思います。・・』           

                        柏木平八郎 元筑波大学教授 

                                

『学生時代のいつの頃か、田中さんが外国から楽器を購入するときの手紙の翻訳というお手伝いをするようになった。取引の相手はフィラデルフィアの楽器商メーニックさんだったことが多いように記憶している。田中さんが購入したい旨を手紙で送ると、メーニックさんからいくつか紹介され、その中から田中さんが、購入したい楽器を指定なさり、取引が成立するというものであった。手紙には、素人の私でも名前を知っているガルネリ、アマティ、ガダニーニ、ヴィヨームなどの名器の名が並んでいたように思う。田中さんを通じて日本に入った世界の名器は随分多いのではなかろうか。

通常の取引に付きまとう、楽器についてのおおげさな説明や、値段の交渉などはなく、楽器についてよく判った人々が互いを信頼して取引しているような印象をうけたものだった。実際にこの仕事をさせていただいたのはたかだか、2年程度だったと思うが、とても多くのことを学ばせて頂いた。時には音楽会にも連れて行って下さり、また田中さんが大変な食通でいらしたので、よくご馳走して下さったことも楽しい想い出である。奥様の元枝様が田中さんと同じように太っ腹で、そして料理の名手でいらして、いつも美味しい家庭料理をご馳走して下さったことも懐かしく思い出される。アルバイトで伺っているに過ぎない私を超一流のレストランに連れて行って下さったことも珍しくなかったし、ブランディーの美味しさや、当時まだ日本では珍らしかったフランス製のチーズなど一般には出回っていないのにカマンベールの美味しさを教えてくださったのも田中さんであった。田中さんはあらゆる点で、一流とは何かをご存知の方だったと思うのである。』             

                        窪田憲子 都留文科大学教授

                                  

『・・もう40年前ですが私が工学部の学生のとき、田中博先生に初めてお会いし、私の使っていたヴァイオリンの調整をして頂きました。そのとき先生は私のヴァイオリンを手にとってほんの10秒くらい何をしたかわかりませんでしたが作業をなさいました。しかし、たったそれだけで以前と全く別の楽器のように生き生きと音が出せるようになりました、その衝撃を今でも忘れることが出来ません。曲折を経て現在、私は弦楽器の製作、修理、調整の職業をしています。今日のご遺族の努力に敬意を評しますと共に今日のコンサートが、お集まりのどなたかの心のなかで何か記憶に残る衝撃となることを期待いたします。』

                                    升水 正夫

 

『1964年頃に、田中さんに選んで頂きましたチェロ、1914年のロメオ・アントニアッツィーを、今も使っております。チェロは96歳になりました。私の師、小沢弘先生にも、若いが健康で良い楽器だと言ってもらいました。私は駒を夏、冬に取替え、年に2,3枚使っていますが、その中の1枚は、田中さんが千葉で倒れられる1週間前に削って頂いたものです。その駒は、使っている駒も中で一番良くなり、この駒を使っている季節が一番嬉しいときです。 私の楽器は、田中さんの想い出一杯です。・・・』

                             服部善夫  チェリスト

 

『・・田中博氏は、今でも我々の世代の音楽家、楽器つくりの方の間では伝説的な存在の方で、その後田中氏を越える人がいらっしゃらないのが残念であり、日本としても困ったことです。』

                          磯崎陽一 ヴァイオリニスト

 

『・・・ご盛会をお祈りいたします。』

        川上久雄 鈴木弘一 公門俊之 根津昭義 大久保淑人

                                    元N響団員

 

『・・父(元N響事務長)はこの4月で90になりました。・・田中さんのアトリエに行くのが私は大好きで昨年亡くなられた千香士先生に連れて行ってもらうのが楽しみでした。・・・あの頃に調整してもらった駒、ボール紙で作られた指板の下に挟むものはまだ大事にとってあります。・』          

                          出口淳子 ヴァイオリニスト

 

『お父様の作品を大切に保管して公開していることも知り胸が熱くなりました。何度かお邪魔した青山のお宅。玄関を入ってすぐにあったお父様の工房。今でもはっきり覚えています。目を閉じると時空を超えてその場に居る感覚さえ甦ってきます。そして決まって思い出すのはお父様のことをお話しするときの千穂さんの嬉しそうな表情。毎日、病床のお父様のために30品目を使った料理を用意しているときいたことがあります。・・芸術であれ、学問であれ、子供時代に本物に触れる機会がたくさんあると大人になってからの人生が豊かになるような気がします。未来へと繋がる有意義な活動で感服いたしました。賛同者が増え、活動の場が更に広がって一人でも多くの子供が参加するといいですね。最後になりましたがコンサートの成功をお祈りいたします。』

                                     鈴木節子

7回忌追悼コンサート

没後20周年コンサート

    ~寄せられたメッセージ~

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