音楽のまちづくり
世界を旅する
タナカヴァイオリン
~世界で活躍する演奏家の便りから~
・赤星昭氏(ベルリン放送管弦楽団コントラバス奏者)
みわ(ヴァイオリニスト)夫人の便りから
1963年4月20日ベルリン
「・・今日入学試験が済み、シェパリッツにつくことに決まりました。ベルリンフィルの第一コンサートマスターです。試験の先生は20人並んでいたけれど昔のコンサートマスタ-のアントン・プレロや偉そうなのが大勢いて弾き終ったら『アンタの楽器はどこので誰の作だ?』と皆が聞き、先生の間でひっぱりだこになり『ものすごく良い楽器だ』とヒロシ・タナカのネームを皆で見て感心していました。
田中さんの楽器が認められてこんなに嬉しかったことはなかったです。今度田中さんの写真を持って先生のところに出かけていく心算です。・・」
・メニューインと演奏活動をするヴィオラ奏者、安良岡ゆうさんの便りから
「12月ロンドンにてメニューインとブラームスを弾き、田中さんのお作りになったヴィオラを弾きました。『デル・ジェスの2つに混じって大変良い音がした』と皆に言われ、新聞にも良い評が出てとても嬉しいことでした。・・
バルセロナでシューベルトのコンサートがあり、私は全部ヴィオラを弾きルネリ・デ・ラ・ムジカで『大変豊かで良い音だった』ととても評判で色々な人から『楽器は?』と聞かれ、『H.Tanaka』と答えるのは大変嬉しいことでした。
・クリーブランドオーケストラに採用決定した留学生広江洋子さんの便りから
「とても喜んで頂くNEWSなんです。今日は!私クリーブランドのアシスタントコンサートマスターになりました。まだ信じられません。・・指揮者のロリン・マゼール氏がヨーロッパに発つ彼の最後の週に私を入れてくれたんです。・・3年経って少しずつ人とまともにしゃべれるようになりました。・・この頃しばしば田中さんのことを知っている人と出会い、『タナカさん、とっても良いひと。』と皆に言われるので大きな喜びを感じています。」
~ヴァイオリン製作者、田中博の人となりが伺える対談から~
【ヴァイオリンメイカーH.TAnakaヘのインタビュー】1976年夏








~楽器製作が当時の
産業となったことを記録する記事~
【伸びる奥丹の特殊産業】 昭和29年1月16日 読売新聞から
昨秋頃からヴァイオリン、ギターなどの楽器製造に乗り出した峰山町京峰高業会社は、わが国楽器界にその名を知られている名工峯沢泰三氏が同郡吉原の郷里に隠棲したのを機にヴァイオリンの製造に乗り出し月産14,5台を出しているが、全国一流店からの注文が相次いで信じられないほどの大繁盛振りを見せている。だが何といっても同業が少なく名工の手に成るという2拍子揃った強みは奥丹後の特殊産業としてその発展が約束されているといえる。
【奥丹に異色のヴァイオリン製作工場】
昭和29年1月16日毎日新聞から
ヴァイオリン作りの峯沢氏
峰山にヴァイオリンとギター教室が生まれた。…小,中高校、一般会員30名が参加し峰山小学校で始められている。
【音を作る工匠】~峯沢泰三氏の紹介~
昭和30年2月10日 大阪新聞から
・・氏は57になるまで38年間この道一筋に打ち込んできた。その間来朝した名ヴァイオリニストの愛器を修繕して感謝されたことも多い。氏の作ったヴァイオリンが世界旅行したこともある。桑港交響楽団のコンサートマスターをしているプリンデルは昭和2年イタリアで演奏した。それを後に諏訪根自子が10年間ヨーロッパで愛用したという因縁がある。楽聖カサルスも氏の存在を知っており、一昨年
三重奏団を率いて訪れたボシュコ女史は「カサルスはミネザワのセロを見たといっていたが、私はミネザワのヴァイオリンを見た。」といって喜んだという。ミネザワをはじめ、ニッポンの手になったヴァイオリンが世界の聴衆を魅了する日もやがては来るだろう。」
・・峯沢泰三氏(54)は、神戸で叔父の経営していた楽器店で製造の技術を磨き、戦前ではハンドメードによるヴァイオリン製作では日本の三大名工の一人といわれるまでになったが戦災で郷里の峰山町に隠棲、こつこつと名器製作に余生を送っている。・・日本のヴァイオリンの世界進出のために生涯を捧げると語っているが、やがて世界の名器がこの奥丹から生まれるのも夢ではなかろう。



